・講師:栗山善四郎(十代目八百善当主)
・日時:2014年12月14日(日) 12:00~16:00
・於:鎌倉市・八百善
・参加者:16名
・まとめ:佐藤達夫

■「記録」が残っている強み

 今年最後の勉強会は、年に一度(?)の「食べる勉強会」。会場は鎌倉市の八百善、講師は十代目栗山善四郎氏。八百善といえば、江戸時代から続く割烹で、古典落語「大仏餅」に登場したり、将軍が食事をしにきたりした(という記録が残っている!)老舗中の老舗。今は、鎌倉市にある寺院・明王院の院内で営業している。
 当初、昼食の前に栗山氏からお話を小一時間伺う「軽い勉強会」を予定していたのだが、楽しいお話が次々と飛び出し、2時間近い「本格的勉強会」となった。例によって、その「さわり」だけをご紹介する。
 八代将軍・徳川吉宗の時代に、初代善四郎が江戸で青物や乾物の商いをはじめたのが八百善のスタートであったらしい。現在の十代目まで延々と続いているのだが、四代目くらいからその記録が現存しているのが、八百善のすごいところ(京都の老舗といわれる割烹でも、昔からの記録が残っているところは数少ない)。
 最も古い記録は、初代善四郎の女将が亡くなったのが1717年として残っている。どうやら、本格的に料理を始めたのは二代目のよう。

■八百善隆盛の基礎を築いた四代目善四郎

 江戸に数ある料理屋(同様の料理屋はたくさんあったであろう)の中から、なぜ、八百善がトップブランドとして残れたのかが気になるところだが、その秘密は四代目にあるようだ。四代目善四郎が江戸の豪商から贔屓にされ「財」をなしたのだが、その「財」というのが、お金ではなく『江戸流行料理通』という本であった。これが歴代善四郎の最大の功績ではなかったか。つまり四代目は「記録を残す」という方法論を打ち立て、それを代々引き継がせたようだ(実は、四代目誕生のエピソードだけでも、映画が1本撮れるだろうというくらい面白いのだが、ここでは割愛する)。
 これ以降のことが、様々な記録として八百善には残されている。
 その記録から、「江戸」という特殊な土地がら(都市)ゆえ、の食文化の発達を垣間見ることができる。徳川幕府の天下掌握術の1つとして、参勤交代が有名だ(これによって、地方大名は幕府を倒すだけの資金力を蓄えることができなくなった)。つまり江戸には、つねに全国から「贅沢人間」が集まっていたといえる。彼等は、地元から特産物を江戸に集めたであろう。また、それを食べるためには「金に糸目をつけなかった」はずだ。江戸の料亭は勢いづいたであろう。
 中でも八百善は、秋田藩主との結びつきが強かったようだ。火事と喧嘩は江戸の華、といわれたように当時の江戸はたびたび大火に襲われた。そのたびに秋田杉の値が上がり、秋田藩は潤った。同時に八百善も恩恵を被ったのだという。

■目黒の秋刀魚の八百善版(?)

 徳川幕府は、地方大名の資金力をそぐために、江戸の土木工事を大名たちに次々と発注した。大名たちは大きな橋の工事などが自分の藩に回ってこないようにと、幕府の重鎮を接待しなければならない。その際、遊興地(吉原)に近い八百善の立地は理想的であった。八百善で食事をし、その勢いで吉原へと乗り込む、というのが当時の最高の「おもてなし」であったようだ。
 このようにして、八百善はしだいに不動の地位を築いていった。さらに、将軍(十一代将軍家斉)が八百善で食事をしたのには、次のような事情もあったようだ。
 江戸時代にも、すでに、食事時の作法が確立されつつあった。主な作法は次の3つ。1:精進料理(寺院)の作法。これは「職業上の作法」。2:茶道の作法。これは「趣味の作法」。3:家庭の作法。これは「子どものしつけ」。そしてこの3つとは何の関係もないはずなのに、将軍は、さんざん毒味をされた生ぬるい料理を、大勢の家来が見つめる中で、話し相手もなくたった1人で食事をしていた。うまくも何ともなかったであろう。
 噂に聞く、あつあつのご飯に揚げたての天ぷらを載せて、出し汁をかけた物(つまりは天丼)などをガツガツと食べたかったのではないか。そこで八百善である。八百善には「食礼」(いわゆるテーブルマナー)が決まっていなかった。お忍びで来た将軍が、だれに遠慮することもなく、作法を気にすることもなく、丼物を頬張った様子が、想像できるではないか(事実、八百善には将軍が行くので丼物を出せという指示書が残っている)。
 「秋刀魚は目黒に限る」と将軍が言ったという落語があるが、「天丼は八百善に限る」くらいの発言はあったのではあるまいか。

■まるで「300年の食文化を振り返る」よう

 四代目善四郎が八百善の隆盛を築いたことは上に述べたが、次の大きな転機は八代目のときに訪れた。このとき、時代は江戸から明治に移った。江戸(東京)には労働者があふれ、食事をゆっくりと家で食べられず、外食をする人たちが増えてきた。八代目は、今で言う「サラリーマンの昼食」に相当する料理を提供することに務め、人気を博したようだ。
 今でもありがちだが、高級割烹の亭主は傲慢で(十代目善四郎氏の言葉)、メディアとのつきあい方を知らない。八代目は、あの手この手でメディア(当時のメディアつまり口コミや簡単な印刷物や宣伝用の小さな品物など)を巧みに利用したらしい。
 また、魚の切り方(刺身など)を、いかにも名人上手のごとくにせず、家庭の調理人(主婦?)が料理したように仕上げ(十代目善四郎氏のことばを借りると「包丁を見せない」)、庶民性を演出するという工夫もしたという。
 味付けも上品すぎず、鮮度のよくない魚(交通や流通や冷蔵技術などが発達していなかった時代の東京で、新鮮な魚介類はめったに手に入らなかった)でもそれなりにおいしく食べられる調理法も確立した。
 しかも、ドイツ仕込みの「食品衛生」知識を身につけ、食中毒などは絶対に出さない、ということにも細心の注意を払っていた(十代目善四郎氏も驚いたことに、八代目は英語も話せたという)。
 ごくごくかいつまんで話しても、このような歴史解説の中に、蜀山人から福沢諭吉、榎本武揚、山県有朋、石橋湛山、はては桂文楽などという、政治家・文化人のエピソードが、あふれんばかりに登場する(食事がなかなか出てこないのも、頷ける)。まるで、300年前からの歴史を学んでいるかのような「食べる勉強会」であった。
 あいにく私は、この方面のことに無知なために詳細をお伝えすることができないのだが、料理を盛ってある器が素晴らしい物であった。「器は飾る物ではなく、料理を載せる物」というお考えから、一般的には博物館に飾られていてもおかしくないような器に、普通に料理が載せられてくる。会員の中でもその方面のことに造詣の深い人たちが感嘆の声を上げていたことをご報告する。
☆肝心の料理については訪ねて自分の舌で確かめてほしい(八百善のホームページは下記)。
http://www.yaozen.net/bunka_top.html